防災シンポジウム

 防災エキスポのオープニング講演に行く。テーマは「防災・アート・国際協力」。前半は環境問題をテーマにした落語、後半が落語家と研究者とアーティストによるパネルディスカッション。フライヤーをもらったとき、絵が『大人たばこ養成講座』の人だ!とテンションが上がって楽しみにしていた。

大人たばこ養成講座

大人たばこ養成講座

 例えば昨年末のNHK紅白で、被災地の人たちがある歌手の歌を聴いて勇気づけられました……というようなエピソードが強調されていた。個人的には、「音楽」を含めたアートの「癒しや勇気や感動」機能を、実際の社会に役立ってないと揶揄されることに対する反論の論拠として持ち出すことはものすごく問題だと思うのだが、それは置いておいて。


 ここでいう「防災とアート」とは、そういう意味ではなかった。元来artとは「技術」という意味であり芸術という意味ではない。そういった人と人をつなぐ技術としてアートという言葉が使われる。それは、例えば地域の防災実習で、人形を使ったり、子どもたちとものを作ったりして人の輪をつないでいくことでもある。また、例えば被災地の復興支援において、一律にお金を出して、完成された住宅を提供してしまうと不公平や不満が生じる。そうではなく、現地の状況と脈絡をきちんと把握して理解したうえで、大切な義捐金や援助金をしかるべきところにしかるべき方法で供給する、例えば素材と技術だけを提供して、建設作業は現地の人に任せるという「選択をする」、という技術である、という。


 阪神・淡路大震災から、13年が経つ。当時の小学生が大学生になり、現在の小学生に向けて、防災のための活動をする様子が描かれた。その「場」を設定したのが、このエキスポを制作した人たちである。


 ハイカルチャーとして完成された「アート=芸術」の形はそのままに、時折「癒し」や「福祉」や、「チャリティ」という名を冠して、社会に貢献するという方法もそれはそれである。それを「上からのアート」と呼ぶのであれば、人を集めて地道にワークショップやイベントを開いて、その中で人と人とのつながりや交流を生み出していくのが、「下からのアート」なのかもしれない。お会いした方々はみな、そういった活動の「面白さ」を追究していて、これまで音をめぐる活動をしている人たちと話す時に抱いていた違和感があまりなかった。ボトムアップで、形のない何かを作っていくことをアートと呼ぶならば、その場合の目的は何だろう。「アーティスト」の役柄はどのように読まれるだろう。

 そして、「あなたは誰に向けてものを考えていて、誰に向けて何を発信したいのか」と先生に正面から問われる。私の目指すものは「アート」ではないはずで、でも上記のような意味で言えば、どこか「アート≠芸術」になりうるのかもしれない。人々と生活の中に分け入って、既存の価値観を崩すこともアートと呼べるのなら、アートと(生涯)教育の境目はどこにあるのだろう、というようなことを考えている。