視聴覚文化研究会

 お誘いいただいたので参加。初回参加で一人目発表、顔見知りがほぼゼロ、という状況。と思ったら駅で読書会メンバの方に出くわし、連れて行っていただく。参加者15名くらいで「今日はいつもより少なめ」には吃驚した。

内容

 先月のゼミで発表した内容(修論+博論への抱負)から、修論をメインに。しかしまとまらないのは同じ。

  • コメント:前半は「日本におけるサウンドスケープ受容批判」であって、欧米の議論も参照すべし。あと、「音」と「音楽」をどう切り分けるのか?という話。だんだん自分のなかでも混乱してしまったのだが、後景としての「音」からどのように前景の「音/音楽」が立ち上がるか、という話をするのであれば、それは「音/音楽」なのか、それとも音楽なのか。全体的には、音を音楽たらしめる何か(「美的なもの」)はこの議論のどこにあり、どういう態度を取っているのか?という問題提起をいただいた気がしている。
  • 反省点:「発表において論文の全容を述べようとするあまり、発表を傍聴しただけでは情報が断片的であり、有機的に接合して理解しがたい」というのは先日私が他人の修論発表に対して書いたコメントだが、「これ今日の自分じゃ……」と思った。元々(修論構想の段階から)、個々のパートがうまくストーリーを持って繋がってこない、というのは大きな課題だったのだが、やはり。引用にしても、増えるのは仕方ないにせよ、自分にとって重要な引用箇所=筆者が事例から導き出した抽象的な理論の部分、であるわけで、初めて聞く人に事例ゼロでそれを理解してもらうというのはやはりかなり無理がある。……しかしあの長い民族誌情報をここでしゃべっても、と思ってしまった。そのあたりは技術が必要だ。
  • 根本的問題[追記]:いくつかのブログで感想を書いていただいている*1*2。やっぱり突っ込みどころは、鉄道のベルの事例がそれまでの理論立てと呼応していないという問題。その商品化とか音楽素材化とかそっちに行くんじゃなくてもっと雑然とした響き合いみたいなものに行きたかったんじゃないの?とは先日のゼミ面談でも言われたが、確かにそこだけ「別の」関心を嵌めこんでしまっているのだ。音の資源化とかグローバル化とかについて少し考えようとしていた時期があって、それが全体の素朴な「音の美しさの相対主義」(ルッソロの時代と同じことを言っている、とも指摘された)及び「自然とか身体とか言ってても進めないよ」という主張にうまく噛み合わさらずに浮いている。で、それらの主張をきちんと実証する「事例」がないままなのだ。理論だけで書くと言うのなら、もっときっちりと、最後の景観論に対応する「聴覚文化の文献」を参照しつつ反論をつくっていくべきだったと、根本的な反省。今年度中にそれを補充していきます。
参加しての感想
  • ふたりめの発表は、20世紀前半のNYにおけるJoseph Cornellのボックスアートについて。芸学の友達はいるのだが、美術系の発表を聞いた記憶となると、(人類学での美術を除けば)学部4年で某教養学部生の「卒論の会」に混ざったときにまで記憶がさかのぼる。この研究会は基本的に美術系の人たちの集まりなので、的確な突っ込みが繰り出されていた。しかし、多分これは修論の途中経過報告だと思うのだが、この時期に修論の内容を発表するのなら「構想発表」の形にしたほうがまとまるのではないかと思う。論文としての構造ができていない、というようなツッコミが飛び交っていたのだが、とにかく論文の目次らしきものを作って、レジュメ的に先行研究を挙げて問題背景を説明して最後に文献表をつけて、「何がどこまでできていてどこからできていないか」を最初から宣言しておいたほうがコメントも建設的になるんじゃないのかと。あくまで「研究発表」という形をとる方針なのだろうか。そのあたりは個人の裁量に任されているのだろうか。省みればM2のこの時期は実現不可能な構想だけがあって、自分でも投げ気味で、そんなんで書けるはずもなく3年かかったのだが、とにかく章立てと目次という形にしてみないことには、「それは無理だろう」とはっきり言ってもらうこともままならなかったと思う。
  • ふと、その4年前の記憶がよぎり、ボックスアートの現物はどこにあるのかという質問をしてみた。「再生」技術を用いて、たとえば展示のカタログを介して作品を見ることで、アウラを持つ現物(であることが重要である芸術作品)に対し、また一つフィルターがかかることも考慮しなくてはならないのでは、と感じるのだが。素人考えだけれども。
  • 前どこかにも書いたが、「創り手」の独創性や、アーティストの芸術性というものから関心が遠ざかってしまった現在、美学的な「美」の発想(というのだろうか)が大勢を占める場に出ると、なにか温度差のようなものを感じてしまう。音楽観の形成って美学でやったほうが理論としてかっちりとできるんじゃないの?と言われた。フィールドで調査して議論したところで、それって個別事例でしかないんじゃないの?と。そこまで根本的に言われてしまうと反論がかなり大変だったのだが(しかもフェルドの理論が応用しがたいという点を自分も批判しているわけだし)、そこで人類学か民族音楽学かと聞かれたことを思い出し、民族音楽学はその中間にいるのかな、と思った。
  • その、人間に普遍的な「音楽性」みたいなものをどう捉えるか、という質問は、そういえば以前に面談でも問われた。人はみなどこかに音を音楽たらしめる何かを保持している、という考え方(ブラッキングとか)に対して、そのように受け止める視線というか聴き方のふるまいが文化的に形成されるということが重要なのではという考え方を支持すると言った気がする(今思い出しても)。問題は、それらの議論が発表に反映されていないことだが。
  • とにかく準備を間に合わせることと、納得行くしゃべり方をすることと、落ち着いて受け答えをすること。ようやく発表することが怖くなくなってきた。自分が何を言っているか、きちんと理解して話ができるくらいに戻さねば。