「聴覚文化研究ってどうよ」

 メールとMLとコメント(とメッセンジャー)で議論がクロスして白熱している。こういう問いかけに対して自分で考えることを通して、今自分が何を感じているのかが文章化される。齟齬や問題意識の下にあるものへの印象を抽象的に語るならば、今思うのは、仮想敵(というか、まあ、リアルに敵)が大きいほど、こちらの姿勢は大きく構えなければならないこと。周到に準備して、自らの持つ焦りや疑問を、軽く韜晦してみせるくらいの余裕を持たない限り、勝てない相手がいるということ。常に直属の「先生」との関係を軋ませて、一歩踏み出すたびハードルにぶつかっていた身としては、そう思う。

 
 そしてその回りくどさと遠さのために、勝ったところでその上に何を建てていくのか見えていないといわれたら、それはそうなのかもしれない。しかし少なくとも、私は「聴覚文化研究という宮殿」を建てたいとは思えないのだ。
 

 MLでは、異領域間に「橋をかける」という言い方をしてみたりしたが、自分がこれから調査に行くとき(行けるか疑問でもあるが)、音楽を作る人だけではなく、聴く人に対してどうアプローチしていったらいいか、それを帰って書き留めるとき、どんな問題意識を持って記述すればいいか、そういったことにどうフィードバックを得るかという思考法や技術を掴みとってくることのほうが大事なんだと思う。堅牢に動かせないものを建てるのではなく、諸分野へスムーズにアクセスし、されることができるような交通・通信網を築いていくことに意味があると。
 

 私の修論は、サウンドスケープ論でこれまで物語られてきた「系譜」を、なんとかして更新しようとする章から書き始め、そこが進まなくて後半150枚を三日で埋める羽目になった(そしてあまり考えずに「聴覚文化の人類学に向けて」とか副題をつけた)。たぶんその副題の意図は、現況を作り出した研究の流れが、目的が全体論的にぶち上げられてしまった(自然と美の称揚)ために行き詰まっていて、だからサウンドスケープ論の蓄積を別の読み方で(「性格悪く」)なぞってみて、聴覚文化という名で呼ばれ始めた問題意識(とその他の分野の議論)を使って人類学の研究方法に接続させたらもうちょっと生かせるんじゃないの?ということが言いたかったんだろうと半年経ってわかってきた。言いたかった割に参考文献が追いつかず、言い切れてないのだが。


 要するに今の立場で、日本のAuditory Culture Readerを作るとしても、やはり流れを一冊にまとめた概説書ではなく、研究会メンバーによる論集になるという話だ。たぶん、『現代のサウンドスケープ研究』とかを作るとしても、そうなると思う。そして、「それじゃ結局何もわからんじゃん」という批判があるのも事実(実際、内容レベルが伴ってないとそう言うわけだ)。が、単著による「教科書」をつくることに意味がある領域とない領域があるとも思う。単著なら、教科書よりモノグラフのほうがいい。


 それにしてもMLを作るとき参考にと一年前のログを読んだところ、まったく何も方針が立たないままただ不安を募らせていた。どうやって、とりあえずこうして書けるくらい発想が固まったのかあまり思い出せない。たぶんそれは今の所属専攻での発想法にしても同じことで、修士時代ろくに勉強しなかった記憶とか論文や発表の意味がわからなかった記憶しかないのに、どこかであの研究室の人たちの思考法をなぞるようになっている気がするときがある(気がするだけかもしれない)。ゼミ発表や論文発表を「聴く」ことで、知らないうちにほんの片鱗は身についていたのだとしたら、実践重視の今の研究室とのずれが危うさを生み出すことを自覚しつつ、それは大切に持っていようと思う。