今後のこと

ちょっと思い出したこと。

 

大学生のときは、学費の元を取るべく実技系の授業をたくさんとって、研究対象としては何がやりたいのか悩んで結局決まらなくて、語学方面から興味のあった中国をやる流れになったものの自費で調査に行くのがどうしても嫌で中華街をフィールドに選ぶ、といういろいろと中途半端な選択をしたのでした。

 

が、たまたま学部が日本で一番大きな専攻に入ってしまったため、専門を変更するなら修士課程でもできるだけレベルの高いところで勉強しなければならないと思い込み、なぜか院試の倍率が13倍という難関研究室を外部受験して滑り込みました。しかしついていけなくて留年して、最後はほとんど食べられなくなりながら十日ほどで修論を書いて無理やり出して、それでも一般企業への就職は考えられずさらに別の院に出願して拾ってもらい、そこからアカデミアで生きていく道を模索し始めます。

 

修論が書けなかった理由はいろいろあるのですが、その専攻内での高い水準を満たして書かなければ恥ずかしい、という当時の空気に飲まれてしまったことが一番大きかった気がします。本来やりたかったことを見失うほどに、落ちこぼれた自分にとっての「最先端の研究者はこうであるべき」という規範は眩しかったし、疑問を呈することもできなかった。

 

博士課程に入ってからは、そのころの経験と、異文化ともいえる大学院大学の異質な雰囲気と、フィールドに向けたプレッシャーが混ざり合って研究者としての自己が形成されてゆきました。

 

第一子が一歳の頃までは、なるべくたくさん業績を出して、子供がいようと周りの男性に負けないように積極的に仕事をするのが正しい価値観だと思い込んで過ごしていて、でも余裕も余力も全くない状態で何を考えることもできなくて、論文どころか新書すら読めなくなってしばらく研究を縮小することにして現在に至ります。

 

こういう私の現状は、修士のころの価値観ではドロップアウトに近いのだと思うし、なんの成果も上がっていない期間が二年に近づくともう声もかからない。子育てに忙しくて業界から消えてしまった人みたいになっているな、と自分でも思う。

 

だけど研究を続けるための努力(≒保活など)はこれ以上ないほどしているし、教育の仕事に関してはセーブしていない。

 

学位が取れていないのは自分のせいだけれども、非常勤を手放したら次がないという前提のもと、常勤になれないタイミングで複数回出産して年齢が上がったことによるデメリットを、私個人の怠慢の結果として負わなければならないことはやはり腑に落ちない。

 

やれる人はやっている、ということは知っている。けれど、いつまで経っても女性は研究自体以外の能力もずば抜けて高くなければ生き残れない業界なのであれば、私はそこには必要ないし、そもそもあまり魅力を感じなくなってきたな、と思う今日この頃なのです。