事業仕分けについて

 ちまちまと書いては消していましたが、ようやく自分の考えが固まってきたので書き直します。「事業仕分け」の結果、若手研究者に対する支援が大幅に削られたことと、その他いろんなものが削られたことについて。既に、ここを見てくださるような知人のほとんどには何らかの形で署名依頼のメールを転送させていただきました。


 海外で暮らしている私が不安になったのは、自分たちの身分・世代にダイレクトに影響する動きにも拘らず、11月中は自分の周辺でまったく反応がなかったという一点に尽きます。だからこそ、この結果に疑問を感じてしまうのは、単に自分だけが不利益を被るからという利己的な理由なんだろうか?という発想になったわけです。


 でも、そんなわけはなく。同じ大学である宇宙研天文台歴博の人たちが状況を教えてくれ、やはりこれは学問全体に関わる問題なんだと認識。やがて本格的に活動している人たちからの連絡が届き、そこでようやくまともに動き出すことができました。今日になってようやく、そうやって労力を割いてくださっているのが、かつて自分の院生生活を助けてくれた人たちだったことを知ったばかりです。


 いろんな人に連絡を取り、その過程では、ようやく誰かが動いてくれたという話もありました。そのこと自体が、「人文社会科学系の若手研究者」というのがいかに団結しにくい、声を届かせることが難しい社会的立場なのか、という事実を体現しているように思います。現在取りまとめてくださっている人の比較的近くにいた私も、それを知らず、何処に何を言っていいのかわからないまま半月過ごしたわけです。


 そういう、「一番弱いところ」ばかりが狙われている、というのがどうしても腑に落ちません。


 思いっきり自分に波及してくる一大事だけに、どうしても近視眼的に反対したくなりますが、私だってこうした事業に対する税金の使い方にはいろいろ思うところはありますし、聖域をなくして精査すること自体には価値があると思っています。ただ、今回のやりかたは、どうみても「精査」とはいえない。法人の体質に無駄が多いことと、そこに掛ける予算を単純に減らすことは、まったく別の問題です。減らすべきは人件費や運営上のコストであって、その先にある事業そのものを廃止することではない。


 応用の人たちからたまに聞く話と同じで、開発途上国への支援でただ単に資金を投入しても、それはその国の人たちの生活改善に繋がらない。何が問題なのか、なぜその人たちが苦しんでいるのかを知り、適切な方法で資金が分配されるように、ローカルなレベルで見極めること、その上で対策を考えること、それが「精査」なはずです。


 私たちが修士課程に入学した2004年から、旧育英会奨学金は、在学中に何らかの成果を挙げた人のみが返還免除されるシステムに変わりました。そのとき、「大学院を卒業した人には、そもそも庶民とは違う恵まれた未来が約束されている。ただし在学中にノーベル賞でもとれば、それはもう優秀な成績として認めます」というコメントを読んで、この人は正気なのか?と眼を疑いました。


 ノーベル賞という一般に認知される結果の下に、いったいいくつの科学者の全人生が沈んでいるのか、オリンピックのメダルの下にどれだけの人の挫折と諦めが潜んでいるのか、それすら前提にしてくれない人たちに、自分たちの未来を勝手に決められたこと、結果がすぐに出ない学問に従事することそのものを否定されたこと。


 一年早く生まれていれば12年かけることが認められていた成果と同じものを2年で出せと言われ、それが無理なら増えていく借金で学費を払うしかない。覚悟の上での進学ではあっても、日々アルバイトを続ける中で蓄積したこの絶望的な感覚は多分、一生忘れられないでしょう。


 そうやって梯子を外され続けたいまの34歳以下、特に28歳以下の人文社会科学系の人たちは、もともと何も期待などしていない人が多いとは思います。だからこそ自分の身を守ることを第一に考えるし、自分の時間を割いて他人と連携して反対しようとする人も少ないのでしょう。「何を言っても無駄」と思っている同世代はとても多いと思います。何があっても仕方ない、だから適応しながら生きていくしかないと。私自身、ここまで直近の未来に直接関わることでなければ、こんなに考えることもなかったと思います。実際、このまま海外生活にシフトすることも本気で考えました。


 でもそんな日本政府でも、自分がどれだけマイノリティでも、民主主義の法治国家で生きている以上、「政府の決断=我々の決断」だとみなされること、そうでない場合は注釈をつけなければならないということを中国にいて学びました。


 抗日の映像を資料で見たとき、逆に気遣われてしまい、そもそも最近の日本政府が東アジア諸国に対して取っている「先の大戦」に関する態度を肯定している日本人はむしろ少ないのだという説明をしてはじめて理解してもらえたとき、「ああ、それは当たり前ではないんだ」と本当に実感しました。


 例えばそういうふうに、政治家が一瞬の行動で与えてしまった影響ひとつ取っても、それを理解して把握して修復していくことは、「すぐに結果の出る学問」としては絶対不可能です。まして、そういう具体的な対象を持たない学問の場合は、その蓄積に意味があることをわかりやすく訴えること自体がとても難しい。諦めているから動かない、という人もかなりいると思います。


 でも私は、先に待つ未来が結局同じでも、"I objected at that time."と言いたい、と思いました。だからそうやって諦めているかもしれない人に一人でも多く届けばいいと思って、あちこちに連絡を取っています。


 ちなみに友人が、海外向けに英語の内容だけを載せたサイトを作っていました。貼っておきます。