マリー・シェーファー講演会 音楽からサウンドスケープへ

 於:聖心女子大学。クリスマスムード溢れる広尾。行って参りました。修論年でなければWFAE@弘前にも参加したと思うのだけど。
 R.M.Schafer氏(マリーというファーストネームだがスペルはMurrayで男性です)は作曲家としてそのキャリアをスタートさせた。その後「サウンドスケープ概念」をきっかけとし、さまざまな活動にコミットしていくことになるが、彼は新しい表現手段を獲得してもそれまでの手段を持ち続けるというクリエイターである(鳥越けい子先生は彼を「現代のルネサンス人」としてしばしばレオナルド・ダ・ヴィンチに喩えている)。現在もコンサートホール音楽の作曲は続けている*1
 今回のコンセプトは、「サウンドスケープ概念の創始者」として知られるSchafer氏の「サウンドスケープ以後の作曲家としての側面」に焦点を当てたものである。会場では、70〜90年代に創作した三つの作品のビデオが上映され、それにSchafer氏が解説をして鳥越先生が通訳をする、という形で講演会が進められた*2。Schafer氏の英語は聞き取りやすく(でもわからない部分も多かった)、有意義な会でした。

 以下、講演・質疑応答の要約及び私個人の感想*3

音楽からサウンドスケープ

森の生活

 Simon Frazer UniversityでCommunication Departmentに職を得て、10年くらい勤務していたとき、Communication専攻との折り合いからSoundscapeという概念を編み出した。当時の共同研究者には、異分野の人も多かったという。
 75年にSFU辞任後、Ontarioの森に丸太小屋を建てて妻とともに生活を始める。そこで見出したのは、Soundscapeと環境との新たな関わり方であった。

[The Gratest Show]1977-87

 Schafer氏が幼少時代、カナダ都市部で出会えた移動祝祭団?のようなものから着想を得て作った作品。現代の一般的な芸術では(オペラなど)、演奏者と聴衆は隔てられ、聴衆は囚人のようにじっと聴くことを求められている。
 この作品では、「聴衆が作品に参加する」ことをめざし、ゲストは会場に着くと仮装され、ペインティングされ、パフォーマーと一体化する。聴衆から選ばれたヒーローとヒロインは舞台上で切り刻まれ、消され、混沌としたショーの中でいきなり怪物が現れて、人々が倒れ始めたところで司会者が非常事態宣言をして「お帰りください!」というところでそのまま終わる。
 聴衆は最後まで、誰がパフォーマーで誰がゲストなのかわからないままである。

[The Princess of the Stars(星の王女)]1981

 Ontarioに移住して、都市のサウンドスケープと森のサウンドスケープの違いを実感する中で、森では遠くの音まで聴こえるということに着目した。湖の端で声を出すと、向ける方角によって響きが異なる。「音源の遠い音楽」として制作したのは、12本のトロンボーンを湖の周囲に配置して、Schafer氏が湖の真ん中で指揮をする[Music for the Wild Lake]がある(映画が出ているそう:芸大の授業で視聴した)が、この「星の王女」はそれを更に発展させたものである。
 開始は午前5時。人は深夜に、都市部から遠く離れたBanffの森までやってくる。この過程が巡礼のようだとSchafer氏は言う。彼が普段親しんでいる森の中の動物たちもまた、作品に参加する。開始時間は日の出前なので、楽器の音とともに鳥たちも囀り始める。狼のハリボテがウサギたちを驚かせたりもする。自然-サウンドスケープ-アートの新しいあり方である。実際の熊が出たこともあり、危険は尽きないが、"Artはdangerousでなければならない"。
 これらの作品は、収録後の編集や加工を一切おこなっていない。指揮もしていない。耳と勘によるタイミングが全て。また、受け手のほうも、会場まで「行く」ことの苦労も含めてプロセスが重要である。現代のアートのように、「アートがやってくる」というものではないのである。*4

[The Spirit Garden]1995-96(1997)

 聴衆をいかに作品に取り込むか?彼らをいかに自然と関わらせるか?
 Schafer氏自身、森で生活する中で野菜を育てて食べる生活を続けている。それは"風景を食べる"ことである(例えば日本で緑茶を飲むとき、茶畑の近くで飲むと、それは風景を飲むことである)。
 この作品では、聴衆に「栽培に参加」してもらう。第一部で彼らに種を植えてもらい、第二部では収穫して宴会をする。植える前に畑のなかで、太陽への祈り、雨乞いの儀礼などをおこなう。聴衆もコスチュームを着て、儀礼に参加する。パフォーマーと聴衆が相互に交流して、作品が生まれる。
 実際の映像では、オレンジ色の衣装を着た「太陽の神」(おそらく)と、黒い衣装の踊り子たちが、パーカッションに合わせて踊り声をあげ、その横で参加者たちが畑に水を撒く様子が写っていた。
「このような儀礼*5は、日本に昔からある農耕の儀礼に近いかもしれません。日本は、現在の北アメリカよりもずっと、自然と文化が近い状況なのではないでしょうか?こういった活動をしていると、“それは過去のものであり、もう戻らないものだ”という批判を受けることがあります。しかし、自然界と近いところで生まれた儀礼は、日本人にとっては昔のものかもしれないが、私にとってはとても新しいものに感じられるのです。テクノロジーを排除し、旧来の日本にあったようなものを作ることが、私にとっては新しいことなのです。」というコメント。

コメンテーター(宮澤淳一氏)とのやりとり、及び質疑応答

音楽とのかかわり

 20世紀は、音楽という概念がより大きく広くなった時代だった。Schafer氏は駆け出しの作曲家だった頃、"What is Music?"という質問状を、メシアンブリテンストラヴィンスキーなどに送りつけたことがある。その中で唯一返事をくれたのがジョン・ケージであった。彼は、"Music is Sound. Read Thoreau."と答えた。

ヨーロッパ文化からの影響

 トロント大学から追い出され(本人談)、一年間船乗りとしてお金を貯めてから渡欧し、ウィーンに向かった。シェーンベルクがまだ生きていると思って会いに行ったのだが亡くなっていた。音楽の勉強をしたかったが先生が見つからず、放送業界で働いて、そこで環境音を録音する技師などに出会ったことはある。

マクルーハンの影響

 Marshall McLuhanの"Acoustic space"の概念には影響を受けている。トロント大学時代、マクルーハンにはしばしば教えを受けており、『世界の調律』で彼の理論を発展させたことをとても喜ばれた。

ケージとの関係(Christophe CHARLES先生からの質問)

 SFUに招待し、レクチャーを頼んだことがあるが、レクチャー自体が"4分33秒"のようなもので何もせず学生が怒ってしまった。質疑応答も、予め答えの書かれたカードを取り出して読み上げるパフォーマンスで、更に怒らせてしまった。

パフォーマンスを成功させる秘訣

 一度上演したら、そのときセンスの合う人とのコンタクトをキープしておき、次のプロジェクトではまた一緒に作る。こうしてネットワークを広げていくことが大切。

私の質問

『世界の調律』、及び今日の上映作品など、都市騒音を批判して自然寄りという感がありますが、現代、21世紀の都市の音についてはどのようにお考えですか。

(もっときちんと言いたかったんですがさすがに緊張してこれが精一杯でした……泣)

答え

 確かに、特に『世界の調律』は、自然を基調にすべきであるというバイアスがかけられています。そういう偏りがあります。Modern Soundscapeが最悪だった60年代、70年代、80年代、特に60年代にはジェット機が轟音をたて、60年代には運動もありました。もとより第二次世界大戦後のヨーロッパでは、工事のノイズが非常に大きく、また60年代からは、ポピュラー音楽のボリュームが―それまでさほど大きくなかったものが、ビートルズが流行したりして、ロック、ポピュラー音楽がどんどんうるさく(louder)なりました。
 その40年後、現代の都市は比較的静かになってきていると思います。正確に何dbとは言えませんが、航空機の音も開発を重ねるにつれて静かになってきています。工事の音も、60年代、70年代よりは、今は静かになっています。
 数日滞在しただけなのではっきりはわかりませんが、東京は比較的静かなのではないでしょうか。例えばパリやN.Y.よりは静かだと感じます。今は都市の音環境デザイン、そういった仕事が認められはじめ、進んでいます。
 これからの都市では、ショッピングモール、街、地下鉄など、生活は屋内型になるのではないでしょうか。人々は太陽の光よりも電光の元で過ごす時間のほうが長くなり、鳥の声を聴くよりもエアコンの音を聴きながら生活するようになるでしょう。
 たとえば、皆さんも今ここで音を聴いてみてください。(ここで舞台上からホールの壁際に移動し、壁を叩いて耳を澄ます)音がしますね。ビルや部屋も呼吸をしているようです。人々は、外側よりも内側で暮らすようになり、そこでは鳥の声も雨の音も風の音も聴こえない……
 

Unexpected Workshop

 ここで、「どのようにして聴衆を巻き込みますか?」といった質問をする男性が出現。
「ではやってみてくれませんか?」「今ここで?」「ええ」「じゃあ手伝ってもらえますか?」「はい」という英会話の後、質問者と先ほどCageについて質問したCharles先生を舞台にひっぱりあげて、聴衆が3ブロックに分かれてそれぞれ彼らの動作を真似する、というパフォーマンスが始まってしまう。時間が押していたので主催側はあわてつつも、Schafer氏は聴衆を乗せるのがうまく、いっきにワークショップのようになってしまった。質問者は黒人男性だったので、身振りの大きいカナダ人Schafer氏&小刻みにジャパニーズっぽい動きをする黒人男性&身じろぎもしないフランス人Charles先生それぞれを真似る聴衆、という奇妙な集団が現出。動き回って落ち着いたところで、タイムアウトで解散。

終了後

 Schafer氏と話したい人、挨拶する人等で停滞する場内。質問のとき名乗ったので、サウンドスケープ協会の方に声をかけていただき、投稿論文が遅れまくったことをひたすらお詫び。楽理の後輩もいてご挨拶。その他先生方にも。

感想

創造としての儀礼

 「精霊の庭」のとき、強い既視感がよぎった。オレンジ色の衣装の“太陽の神”、踊る人々、旋律楽器のないパーカッションの音。それはSchafer氏のいうような「日本にあるもの」としてではなく、ちょうど調べたり読んだりしていた、Steven Feldが調査した20世紀後半のパプアニューギニア社会の写真や音だった。貝殻の音にあわせ、儀礼の踊りを踊り続ける男たちの姿(日本にももちろんこういった儀礼はあろうし、世界各地に同様のものはあると思われる)。但し、踊るパフォーマーの身体は、紛れもなくバレエやモダンダンスで鍛えられたしなやかな動きをとっている。
 Feldはその後、Schafer氏の影響も受けた形で、儀礼の音から熱帯雨林の音へ関心を移していく。その後の熱帯雨林にはカセットテープが持ち込まれ、かつてSchafer氏が「うるさかった」というポピュラー音楽が流れ始める。Feldは彼らの歌を録音し、我々はそれを買って、「屋内の生活で」熱帯雨林のうたを聞くことができる。一方でSchafer氏はカナダの森を拠点に、非西洋世界の儀礼のようなパフォーマンスをアーティストに踊らせ、テクノロジーを用いない自然との交流を提唱していく。
 古い、新しいということではなく。オリエンタリズム云々をも飛び越えて、何か果てしなく“循環するもの”を感じた。この果てしない循環の中で、“民族音楽”は妙な形で定着し、消費される。創作活動としての“サウンドスケープ”は、一見こういった矛盾を解消するようでいて、世界の理解にとってはまた新たな要素≒新たな矛盾を提起してくる。
 その場に行き、その場で体験すること全てがアートだというSchafer氏の姿勢は、確かに「聴衆の誕生」以来のいろいろな流れを一気にひっくり返す、ある意味とてもいろいろな意味を含んだ実践なのだろう。場の人間を巻き込む手腕は確かなもので、ワークショップっぽくなった最後のパフォーマンスもとても楽しかった。

森と都市

 WAFEに行けなかったこともあり、思い切って質問した。本当は、「都市の音は今でもクリーニングされるべきだとお考えですか」と聞きたかったがさすがに無理だった。自認されたとおり、Schafer氏がやはり自然の音を重視していることは尋ねるまでもなかったのかもしれない。人工音の静けさが増したインサイドで生活するようになる……という予測には、「ドームカプセルに包まれた未来都市」のようなものをイメージしてしまった。“東京は静かだ”というコメントは意外に思われたが、確かに広尾しかり、山手線の中央部には閑静な場所も多い(皇居の周りなんてものすごく静かだ)。「環境」というキータームがもはや「自然」へと移っていることに、『世界の調律』以後の、Schafer氏の変化が表れているのかもしれないと私には感じられた。
 だが、現行世代のサウンドスケープ関係者たちが、どんなに静けさを愛する文化があるといっても、……どんなにデザインしても、たとえばiPodの隆盛は止まるところを知らず、現代人は常に音を聴きながら生きている。彼らの「風景」やコミュニケーションの方法は、おそらくまったく異なるものになっている。その「前提」や「感覚」の違いがある。私がこれから知りたいのは、そういう部分なのだと思った。

とりあえず

 こんな現状ですが行ってよかったと思っています。上にまとめたことも部分的に修論本文に入れる気でいます。12月頭のJASPMも行きたいです。……FeldもSchaferくらいわかりやすい英語で書いてくれてれば……(泣)とか言ってられないんだけども。
 しかしサインしてもらってる人たちを見て後悔した。ハードカバーの『世界の調律』、『サウンド・エデュケーション』、持って行けばよかった……(泣)こんな機会もうないよなあ……

補足

世界の調律―サウンドスケープとはなにか (テオリア叢書)

世界の調律―サウンドスケープとはなにか (テオリア叢書)

サウンドエデュケーション

サウンドエデュケーション

ウォールデン 森の生活

ウォールデン 森の生活

サイレンス

サイレンス

youtubeの“4分33秒”動画
id:taninen先輩に教えてもらいました

*1:ちなみに、私が初めてシェーファーという名を知ったのは中学のとき、転校していった元合唱仲間が、転入先の学校の部活で歌っている「わけわからない楽譜の難しい曲」の作者として手紙に書き送ってきたのを読んだときだった

*2:普段は、その「場」に参加することを重視するため、単なるビデオ上映にはあまり積極的ではないそうだ

*3:※万一、検索等でここを読まれた方へ:このエントリの内容は、講演当日の要約ですが、中身に関しては、あくまで私個人(id:aromakiddie)の不十分甚だしい英語聴解力・日本語速記力によるメモに基づくものであり、公的な性質は保有しません。正確性は保証しかねますし、一般的な個人blogの範囲における責任は私にありますが、それ以上の文責を負うものではありません。学術的資料としての信憑性はないものとお考えください

*4:大きいハリボテなどを用いるのは、移民の多いカナダならではの、日本やアジアからの影響では?という鳥越先生の質問に対しては、そういう影響はあまりなく、森に対する「大きいもの」を作ろうとした結果だと答えていた

*5:通訳では「儀式」でしたが、内容からいって儀礼かな、と勝手に儀礼と記述。Ceremonyと言っていた記憶もあるのですが……一応