一気読み後

 日本書籍の店に連れて行ってもらって、見つけて即決してカードで買った本。日本の定価を見て多少揺れたけど、直感を信じて購入。「なんでパンダ?」と聞かれ、日本におけるチャイニーズのイメージはパンダだから、と答えたら苦笑された。


中国動漫新人類 (NB online books)

中国動漫新人類 (NB online books)


 結構前の本なのに今更、かもしれない。でも、来る前に読んでいたら間違いなくインパクトが半減していたと思う。


 「動漫」は中国語でアニメと漫画を表す単語。広東語でも同じように使われている。内容は主に、80年以降に生まれた中国(大陸)の若者たちが、厳しい言論統制をいろいろな条件によってスルーしたコピー商品の日本動漫を見て育ち、深く影響を受けている反面、95年以降に強化された反日教育によって強い反日感情を抱くようになった、奇妙なダブルスタンダードについて。それが「なぜ共存しうるのか」という点を探りつつ、抗日や反日の歴史、台湾と大陸の関係性の変化、「先の戦争」をめぐる近年の日本首脳陣の発言と海外華僑の関係などにも切り込んでいる。


 私がブログに書く本としては珍しく(そもそもここ2,3年、本についてほとんど書いてないけど)、内容の詳細は随所にあるので略。


 香港で5ヶ月近く暮らすうちに、当初はあまり重視していなかった、「日本の漫画やアニメ(とアニメソング)の影響と、日本語学習熱と、二昔前のJ-Popの広東語カヴァー」という問題意識が否が応でも出てきた。そして、「台湾ではどうなんだろう」としょっちゅう考えるようになった。


 そしてあまりにも親日な雰囲気の中で何かおかしいと思いながら過ごした矢先、出向いた大陸が「南京」だったことも、そこで「大陸の同世代」と出会ったことも、強烈ではあった。自分の不勉強で、きっちりと歴史を見つめてきたとは言いがたいが。意に介さない日本人グループに対して、街行く人々の鋭い視線は痛かった。大陸では特に、一人のときはなるべく薄化粧で帽子はかぶらず、数字は全身を耳にして聴き取り、しゃべらずに買い物をして、お金は放り投げる、という、最低限の会話しかできないよそ者としての習慣がよみがえった。


 親しくなった友達と連絡を取ろうとしても、ファイアウォールに阻まれて写真は送れないし、彼らからこちらに電話はできない。でも、Google Talkと大陸内のQQを使って、電話と同じレベルでの意思疎通が可能になった。ある程度のインフラと知識があれば、旧式の制度からブロックしても、コミュニケーションは取れるのだと実感した。


 東アジアの歴史認識についてネットで不用意に実名を出して書くのはあまりに危ないので自重するが、先月南Y島に遠足に行ったとき、特攻隊の格納庫跡を見て、その後友人の手を煩わせていろいろ調べてしまった。渡れなかった加計呂麻島のことを思い出した。


 あ、ここ以外の島自体はこういうところです。だからよけい違和感。

 
 本に戻ると、何よりも、著者の遠藤氏が還暦を越えた、「外地」の体験者なのに対して、自分は彼女らの「引き揚げ」がなければそもそも生まれていないという個人的な動機が根底にある。それでいて、私もまた「80后」であり、いまの香港の若者や、この著書にもある大陸の若者たちと同じ「動漫文化」を日本のリアルタイムで生きてきた*1。海の向こうの同世代が、自分が「聴いて」きたものと同じものを共有していることをはっきり悟ったとき、考えるべきことがひとつ増えたのを自覚した。そしてこの本を読んで、それらを繋げることも可能なのかもしれない、と思った。そもそも研究の手法が違うので、なんともいえないが。


 ちなみに、まったく言及されていなかったのが日本発のポルノのことだが、これも相当な影響を落としているはず。著者が女性であり60歳を越えているわけだから、触れていたらそれはそれですごいものがあるが。


 ただ、これを読んで改めて肝に銘じたのは、「自治が徹底していない人々にとって、それが制度の異なる海外のものであっても、メディアの意見は検閲済みの政府の公式見解だと思われてしまう」という点。それを勝手に敷衍すると、「政府の意見と異なる意見を主張する人間がいる、ということに想像が及びにくい」ということにもなる。


 確かに選挙権を持った大人である以上、政府の方針は一応我々の意思の反映ではある。でも、それに反対する権利は一応保障されているし、そもそも意見を持つことを放棄した人が大半であることを説明するのは、多分相当難しいのだろう。


 そういえば高校のとき、公民の授業を受けて気分が悪くなり、テストで求められた回答が気に食わなくて反対意見の答案を出して点数を下げられ、納得いかずにペーパーを教師に出して、あなたがそういう教育を受けて育ったことが遺憾だ、と赤で書かれた一件を思い出した。


 義務教育は終わっていたので当然だが、既に、幼稚園から小学校にかけて(多分、学校よりも児童書や、それこそアニメで)身につけた価値観をベースに、自分でどの本を論拠にするか決められたし、学校の授業よりそちらから読み取った答えのほうが正しい、と思っていた。当時の私は、それを元に「先生」の偏った授業に反論することを生徒としての権利だと思っていたが、おそらく土地によってはそこに命が関わるのだということを、今頃に実感する。


 日本で『アストロボーイ』が公開されたら、また状況も変わるのだろうか。ちなみに私が成人前に手にした手塚治虫の本は、漫画ですらない、これ。多分7,8歳の頃に家にあったのを読んだ。いかに変に偏っているか、という話ですが。

マンガの描き方―似顔絵から長編まで (知恵の森文庫)

マンガの描き方―似顔絵から長編まで (知恵の森文庫)

 

*1:というか、多分、普通の「日本の若者」よりだいぶ偏ったやり方で漫画やアニメに接してきた