「立ち位置」の揺らぎ

 今頃になりましたが、昨年今頃から追い込んでいた研究ノートが、この初秋に学会誌に掲載されました。元は修士論文で取り組んだテーマのうち、研究史的な部分を整理した形になりました。印刷されたものは日本に送付されたのでまだ現物は見ていませんが、修論自体にかけた3年も含めて考えると相当長丁場だったことになり、自分の生産性を再度反省することしきりです。


 他にも、役職が一旦休止になったりしたため、伴って自分の手打ちのサイトのほうも多少更新しました(このブログのリンク集に入っています)。今回は手元に校正前原稿しかないため、PDFはまだありません。9月に大陸で発表した論文もアップしなければと思いつつつい後に回ってしまっています。そのうち一気に更新します。


 5日には、香港浸會大學にて開催された、インド古典音楽研究者のStephen Slawek教授による講演会に行ってきました。学部にethnomusicologyの講座がない大学のためか、込み入った説明よりも、楽器の変遷やインド古典音楽における拍の取り方と西洋音楽のリズム割りとの対比など、比較的一般向けの内容だったような気がします。


 その後大半の学生さんはまっすぐ帰ったのですが、美しい細工物のシタールに見とれていたら、「留学生なら、レセプションあるから是非!」と言われました。職員食堂の立食パーティの隅っこにいる状態を想像して(これは現在の日本の所属で身についたイメージですね)、とりあえずついて行ったら、ショッピングモールのレストランの個室でびっくりしました。しかもそれがベトナム料理な時点でいろいろと突っ込めるなあ、と思ったり。


 しかしこの日の失敗は、途中で名刺を切らしたと思い込んだこと(実際はちゃんとバッグに入ってました)。院生の名刺は肯定派と否定派がいるような気がしますが、漢字圏の海外では絶対必要だ、というのが今の私の意見です。


 但し、なじんだ英語名のニックネーム(もしくは英語名)がある場合や、「田中ケン(仮名)とか伊藤エリカ(仮名)」みたいな英語人にも中国語人にもわかりやすい名前で、なおかつ誰でも知っているような大学に所属している場合はいらないかもしれません。


 いや、発音が難しいと、名前を認識してもらえないんです(後々の話ではなく、その場で呼べないらしい)。紙があれば、中国語人には漢字で覚えてもらえます。今回お会いしたアメリカ人の先生の一人が非常にはっきりとファーストネームを呼んでくださったので、おお、と思ったのですが、実は日本語が話せる人だったようです(大学のウェブサイトからCVが落とせるという)。


 しかも私の場合、常に「日本のどこにあるなんという名前の大学か」を質問され、日本人の院生にすら説明しにくい自分の所属を毎回言わなければなりません。この点は、これまで在籍した大学のほうがはるかに楽でした。


 Slawek教授は私の大学名でなく機関名を見て、同じ領域の先生の名前(の半分)を思い出していらっしゃいましたが、それも名刺がなければ不可能だったような気がします(間違いなく知り合いだろうと思いつつ、私の英語力では礼を失せずにそれを確認するのは無理でした)。


 留学のために、日本では今年「学会」はほぼすべてパスしてきたので、こういう場に(アウェイとして)出ること自体が非常に久しぶりでした。9月の発表は、どちらかというと感覚的にはホームに近かったので。


 いつも自分の研究に関して使っているショッピングモールで、また違う立場で研究者の先生方と話す、という局面が来るのも、これだけ狭い都市ならではなのかもしれません。


 そして「香港」のメリットは、とりあえず「香港に来る」という日程さえ誰かが組めば、何処で開催されようがほぼ1時間以内で訪問できるという手近さでしょう。「せっかく来日するからたとえ新幹線でも聞きにいく!」みたいな意気込みが必要ないのは非常にありがたいことです。来港公演なども今のうちに、行ける限り行っておこうと思いました。