軽い衝撃

 日本にいてもTVはほとんど見なかったので、いまもニュースはほぼネットで拾っている状態です。語学の勉強には字幕つきTVと新聞が欠かせないのはわかっているのですが、どうも苦手で。


 ただ、以前の記事に書いたように、自分でつけなくても地下鉄や店でニュースはひっきりなしに流れています。台湾の台風の被害状況も、日本の衆院選の経過も、地下鉄のTVで知りました。一応自社の映像以外のものには文字情報にぼかしが入るのですが、日本語ならなんとなく読み取れる範囲です。


 先日も、暇な時間にのんびりとショッピングモールを歩いていて、ふと見たら大画面でニュースを見てどきっとしました。グレーとオレンジの画面と、「死刑」の文字。今年7月5日に起きた、新疆ウイグル自治区暴動関連の二審のニュースでした。


 死刑確定のニュースは日本でも見慣れているし、「もう判決出るのか」というのは少しありつつも、少数民族の問題に深くかかわっているわけではなし、そのときは、なんで「怖い」という気持ちになったのかわからなかったのですが、昨日また同じ映像を見てようやく気づきました。


 ”その瞬間”を「映像で見た」こと。いつも写真すらなく絵で見るだけで、私たちが「法廷の映像」だと思っているのは、ドラマの中のセット。丸刈りの被告人の表情も、そもそも被告が複数いるのもなんだか違和感が。昔、東京高裁に見学に行ったときも、若い被告人の丸刈りの頭と、ひ弱そうな体格が異様に印象的だったことを思い出しました。


 私が唯一覚えている死刑判決の映像はルーマニア独裁元首死刑の世界同時中継ですが、あれは生存説が流布するのを恐れたためだそうです。起こる結果は同じでも、世界中の人々が自分の眼で確認することで、それが現実だということを改めて刷り込まれる。それを言ったら湾岸戦争から9.11を経て現在に至るまでひとつのテーマなのでしょうが、「映像として世界に放映すること」がもつ力をいまさらにひしひしと感じ、日本の法廷が画家を使っている意味について改めて気になり始めました。