不可能な経験

 時々思い出しては自分のなかで整理をつけること。


 都内のとあるターミナル駅に住んでいたとき、冬の駅前でダウンコートを着て待っていた異国の女性たちのことはどこかで書いたと思う。彼女たちと自分の間にある“何か”のことは、どうにかなるようなものではない。でもときどき考える。


 たとえば渋谷マークシティの裏の通りや、湯島近くの春日通りを歩いているとき、たまたま一緒にいた友人や知人の男性が言った言葉に、毎回軽く衝撃を受けたことをはっきり思い出す。曰く、男だけでここを歩くと、絶対に声を掛けられて足止めされる、と。


 私は彼女たちを無視することができなくて、いつもいろいろ考えながら見てしまう。でも彼女たちにとっては、一人でいる私は空気でしかない。そして男性と歩いているとして。もし彼が一人だったら、「彼女たち」のターゲットに変わる。私は、単に「邪魔」なんだろう。


 自分にとっては単純に「友人」や「先輩」でしかない目の前の相手が、彼女たちのサービスに対価を払いうる存在として見られていることに、今でも慣れない。そして、自分のほうはそうでない、ということには、もっと慣れられない。


 海外で女性を勧められたような話をよく聞く。旅行記でも、本業とは関係ないエピソードでも。私が近しく感じる人たちは、誘いに応じることはあまりなさそうに見える。誘われたとして、それをどう断りそのことをどう語るか、にその人の個性が出るようにも思う。


 自分は、断る側にはなれず、誘う側になる/なっていた可能性は有している。そしてもしも自分が誘う立場に立ったとしても、彼らは同じようにぞんざいに断り、断ったことを時に誇らしく語るのだろう、と思うと、それまで対等に話していた相手が、突然ものすごく遠くに見える。


 ビラ配りで無視される気持ちには、続けるうちそのうち慣れる。でも、「自分」を売り込んでそれをやられることが、同じだとは思えない。断るほうはきっと同じように断っているとわかるから、なおさら。


 困ったことに、やはり私も自分に近い人たちに対しては、できれば断る人であって欲しいと思ってしまうのだ。「私」は、彼女たちの敵でしかない。彼女たちのほうもある意味では私の敵で、そのことを否定するのもまた逃避だと思う。


 そして、そうやって「断る経験」をする機会そのものが、自分には訪れない。自分が、比較的円の強い国に行っても、そこでその形でお金を落とすよう勧められることはないだろう。そして、それを断ることで何かを学ぶこともできない。そのことに、どうにも頭がついていかないのだと思った。