アイデンティティの阻害

 大学のPCがVista対応になったこの春から、自分の姓が、戸籍上の表記で印刷できなくなった。Microsoftの設定でMS系(MS明朝とかMS UI Gothicとか)が表示されないみたいなんです、と事務の人に言われ、提出書類を自分で作るときは毎回MS以外のフォントを無理やり使うことになってしまった。


 2月にid:ightさんからいただいた論文がOsakaフォントで、それを読むためにフリーのWindows用Osakaを落としてみたら読みやすくて、しばらくそれを使っていた。が、最近教えていただいたアウトラインエディタにOsakaを使うと妙に文字化けする。PC間で互換性がないと仕方ないので、画面で読みやすく、印刷して美しいフォントを探す旅に出た。そしてIPAという機関が配布しているIPAフォントというものを知った。とりあえず入れてみたら、Osakaよりも横幅が狭く、読みやすく美しい。しかし、肝心の自分の姓が、MSと同じように表示され、本来の目的から逸脱してしまった。


 そこで調べていくうち、そもそもなぜMSが表記を変更したのか、ようやく把握した。


 そもそもの決定自体は、かなり遡って平成12年の国語審議会でおこなわれていたらしい。そこで、印刷物に表外漢字を用いる際、常用漢字で略されている形よりも旧来の形が優先されるように決まったらしい(必要なところだけ要約。詳細はこちら)。


 しかしそこではこう書いてある。

一般の文字生活の現実を混乱させないという考え方は,常用漢字表の制定過程から一貫して国語審議会の採ってきた態度である。一般の文字生活において,印刷文字として,十分に定着していると判断し得る略字体等を簡易慣用字体として認め,3部首(しんにゅう,しめすへん,しょくへん)についても,現に


の字形を用いている場合には,これを認めることにしたのも,この点への配慮に基づく。
この考え方は,同様の意味で,常用漢字の字体をいわゆる康熙字典体に戻すことを否定するものである。当用漢字字体表以来50年にわたる経緯を持ち,社会的に極めて安定している常用漢字の字体については,動かすべきではないと考える(太字筆者)。


 平成16年には経済産業省がこれに準拠してJISコードを改定し、標準の文字を変更した(一覧)


参考:IT Media News


 そしてMicrosoftは、Vistaに搭載するMS系フォントのすべてをこの基準に設定してしまった。それは国語審議会の当初の方針に反しているのではないか。「3部首」が表示も印字もされないのは間違っていないか、という点はたぶん方々で指摘されているに違いない。だってどう考えてもおかしいもの。


 当事者としては、確かに一点しんにゅうと二点しんにゅうが混在するのは面倒だが、少なくとも子どものころから「(戸籍の表記どおり)正確に一点しんにゅうで書きなさい」と言われて注意して書いてきたものが、一気に表示すらされなくなるのは非常に不愉快だ。作った書類の名前欄と捺す印鑑の字が違うのは違和感がありすぎる(その内容がたいしたものじゃないのはこの際関係ない)。「柳」や「高」の異体字が姓になっている友達の名前も、自分はできる限り「正しい」表記で書くようにしているのだが、こうなると彼ら彼女らの気持ちが非常によくわかる。


 「正しい」というのはそういうことじゃないか?と私は思う。一般の文書において標準から外れることは政策的判断であれば認めざるを得ないが、今回の変更が「一般の文字生活の現実を混乱させない」とは思えない。現に、先生方も事務方の人も、私に関する書類を作るとき戸惑われたらしく、何度か問い合わせと断りを入れられた。そしてこの字を姓に持つ人は、組織内に自分ひとりではない。


 私たちは名前を選べないのと同様に、姓も選べない。選べないなりに折り合いをつけて一生付き合っていくもので、制度の側が戸籍システムを設けてそのように管理していくつもりなら、システムを動かすインフラもどうか勝手にその存在を抹消しないでほしい。


 結局、IPAは以前のバージョンのフォントも配布していることを知り、今はIPAX0208というものを使っている。