2002年ソウルスタイル―李さん一家の素顔のくらし

2002年ソウルスタイル―李さん一家の素顔のくらし

 わたしたちはいま、周囲の日常とあまり接点をもたなくても人格をはぐくむことのできる環境を手にしている。1989年に連続幼女殺人事件をおこした犯人Mの部屋が公開されたとき、部屋の空間を隙間無く埋め尽くしたビデオやエロ本の山を見て人々は納得したものだった。異常な性格は外部の世界から閉ざされた異常な空間のなかではぐくまれるのだと。けれども、1993年に出版された『東京スタイル』(都築響一)では、Mの部屋は無数に棲息する都市人間の特別でもなんでもない風景のひとこまにすぎなかった。部屋のなかにあふれるものは、もはや本来の機能や使用目的のためだけにそこにあるのではない。アルバムのなかの写真のように、あるいは蓑虫の蓑のように、そうすることでしか確認できない自己を構成する不可欠の部品だった。


 閉ざされた家屋空間のなかで肥大化するいっぽうの自我。それをつつむ社会との乖離は、程度の差はあれ、おそらく現代人なら誰のうえにもおきている。家族でさえ、共同体としての無力を十分すぎるほどにさらけだしてきたのだ。だから、とおりいっぺんの解釈を社会にあてはめて理解したつもりになっても、その先に浮かびあがる個人の姿はどれもリアリティを欠いたものにしかならない。無数のMを射程におさめながら、社会がそのうえにのこした痕跡をとらえること。生活財調査は、こうした問題意識の変化を背景に、その解決の糸口を住宅の空間にもとめたのである。[p.104-105 社会のイメージから個人のリアルへ]

TOKYO STYLE (ちくま文庫)

TOKYO STYLE (ちくま文庫)


 2000年の生活財調査における調査者の姿勢を語る部分。年明けにいただいてから、「従来のコミュニティとコミュニケーションを考えること自体に無理がある」という事例・説明として私は読んできた。だが、6年前(おそらくはもっと前)に既に捉えられ、一般に公開されていることが、また何度も繰り返す。そして逃げるように感じることを放棄する、またそうならないために書き留めておく。