コロキウム

とは誰も呼ばないですが、修論+研究発表終了。まだ準備不足になる癖が抜けなくて、それでも先生方はきちんとコメントを下さって、そのことに対して反省。

反省点

 やってもできないわけではなく、その分前向きにコメントをもらえるのだからしっかりと準備をする(基本だ!)。叩かれるにしろ、黙って耐えることに慣れるんじゃなくて落ち着いて反論することに慣れる(こっちはできるようになってきた気がする)。

 顔が見えない、というのは批判として受け止めるとしても、漠然とした違和感に気づいたのは、もしかしたら自分は「名前のない」読み取り手に興味があるんじゃないだろうかとふと思う。アーティストを追うつもりがないというのか。音を生み、自分の「作品」として名前をつける行為「ではない行為」に関心がある気がする(それは文献としか向き合わなかった3年間の弊害なのかもしれないが)。だとすれば、一番のハードルは人類学でそれをどうやるのか、という話になる。
 だって、結局生の音を出す人よりも、聴く人のほうが人数が多いじゃないか、その人たちを知るほうが面白いじゃないかと、思ってしまうのは自分が「演奏を諦めた」から?
 そんな単純な理由でもない気がする。