極彩色の記憶

HHK総合 ドキュメント72時間「横浜中華街 青春グラフィティ」

 番組欄を最後に見たのはいつだろう。親と、横浜在住の友人がメールで教えてくれて、録画した。引っ越して半年以上、ビデオ繋いでなかった。


 私が3年前、卒論のために調査に行った横浜中華街の、横浜中華學院校友會*1と華僑の芸能(中国獅子舞、龍舞)にスポットを当てた番組。たぶん史上初じゃないかと思う(彼らがしばしば話題に挙げた神奈川新聞を除けば)。ものすごく迷って、悩んで、そしてこの先ずっと通い続けることを諦めた。期間も、立場も、内容もそして書こうとしていた論文も、何もかもが中途半端だった。


 番組は綺麗に映像と音と、彼らの表情を映して、ナレーションと編集ですっきりと物語を作り上げている。
 日本人が増え、観光地化が進み、ますます多様化する横浜中華街で、脈々と続く伝統を守ろうとするストイックな青年たちの青春群像を。彼ら自身が「アイデンティティ」という言葉を発し、移民文化は様々に読み込まれていく。誤解も誇張もなく、淡々とドラマを追う、いいドキュメントだったと思う。



 3年前の10月も、同じ場所には同じ光景が広がっていた。同じ音が響いていた。幹部陣が数人入れ替わっているようだけれど、彼らの言うとおり、人が変わっても中身はさほど変わらない。雙十節で引退するコンビの演技に、本気で感動したことも思い出す。ブラウン管の上では、当時の私が必死で追っては質問をぶつけていた彼らが、同じ表情で、同じ言葉を語りかけていた。体育会系の、言うなれば徒弟制の、男社会の、貴重なほどに強い絆。


 けれどそこにいる自分の姿は、大学で先生に聞いていた「音楽学の参与調査」とはかけ離れているように思えてならなかった。教えてもらうこともできず、ただ追いかけて問いかけるだけ。それよりもあの校庭で、休憩時間にいきなり、附属の幼稚園児から社会人のメンバーまでが全員で「だるまさんころんだ」をはじめたことのほうが、よっぽど追求する価値があるように思えてならなかった。都心に向かう上りの終電でも、ファミレスで今はなき東横線桜木町駅の始発を待つときも、結局自分は何をしに来ているのだろうといつも考えていた。


 そして気づけば3年が経っていた。「彼ら自身は音楽と思っていないのに」という悩みは私の中で思いのほか増殖していき、あの中途半端にしかなりきれなかった記録を書き直した論文のメインテーマになった*2。先輩や先生から、フィールドの話をたくさん聞いた。時間も経った。それでようやく、研究だから、と割り切って対象を見ることの妥当性を体得できた気がする。今なら、「卒論なんだから」と思えるのだが。当時は必死だった。


 もうだめだ、と思ったとき、記憶を頼りに徹夜で打ったフィールド記録と、今頃からやりなおした調査のテープを起こしたテキストファイルは今も本棚とPCの奥で眠っている。もうあんな思いはしたくないと、集めた文献を読みこなすこともできないまま、机に積んでぼんやりとした生活を送っている3年後・現在の自分と迫り来る締め切りと、当時やりたかったことや思っていたことに対して今の自分のあまりの不甲斐なさが映像とともにどっと去来して、なんだか30分間泣きながら謝りながらテレビを見ていた。逃げている場合ではなく、体調を崩してる場合でもない。今度は「修論なんだから」というわけにはいかないのだから。
 出来ないことが多すぎて麻痺しつつあった最近を横殴りにされたようなそんな気持ちで。

 

*1:リンクは貼りませんが検索したら一発で出てきます。サイト内に動画もあり。

*2:横浜中華街の伝統芸能についての上記論文はこちらから