フェルド「滝のごとき流れ―カルリ音楽理論の隠喩(1)」

音楽美学―新しいモデルを求めて

音楽美学―新しいモデルを求めて

『鳥になった少年』以前に発表され、その基礎ともなった論文。

要約

 「民族-音楽理論」というものの存在について、ことばの「隠喩」の問題と、音の運用規則に関する問題の関連から立証していく。ことばは言語共同体において、さまざまな意味を付与され多義化していく。そのひとつとして「音楽についての言説を成立させることば」を選択する。事例としてカルリたちの儀礼gisaloにおける歌を取り出す。彼らが音楽(歌)を語るとき、それは水の流れに喩えられ、その「水の流れ」と「音の流れ」には明らかな関連性がみられる。そのことから、彼らが彼ら自身の音楽について語るとき(そして異文化の音楽について語るときも)、その用語法が体系的であることを立証し、それゆえ「カルリ民族の音楽理論」の存在を主張した。


 「ある社会環境においてパターン化された音の認識と産出と解釈を支える文化原理に関する概念体系として研究し、さらに、音楽構造が単に中味を映す鏡なのではなく、理論的な基本原理の表層における表れである」(p.223)。

「重ねあげた響き」に向けて

 カルリは決してユニゾンで歌わない。歌が流れるためには、鳥や水の音と同じく、層をなして流れるようにしなくてはならない、というドゥルグ・ガナランが後年の議論の主題となるが、「上に持ち上げる」という意をもつ「ドゥルグ」の語はここでも出てくる(先導で歌い始めること。日常では、ドゥルグ・サラブ=「発言権を握る」)。だが、命名法の一事例としての記述にとどまる。このときは構造主義分析でカルリのうたと神話を論じた『鳥になった少年』より前の時点であり、言語学的解釈のなかに構造主義的理論が見受けられるものの、「音の運用に関する理論」をメインに論じているため、のちのフェルド論文で要の事例となる歌詞や地理ではなく、音高と音の命名法に絞り込んだ議論がなされている。


 ある民族特有の植物分類を民族植物学と呼ぶように、こういった技法を民族-音楽理論ということができるだろう。フェルドはこの時点ではヒトのつくることばと音の関係に着目しているが、やがてカルリたち自身の指摘により、自然の音に耳を移していく。