Dialog in the Dark 2006東京

参加型展示?イベント?ワークショップ?

視覚を遮断することで、その他の感覚を呼び起こすという、カテゴライズのしにくい催しである。創始者はドイツのアンドレアス・ハイネッケ。以前論文添削をお願いしたため私の研究テーマを御存知だった友人が渡航直前ということでチケットを譲ってくださり、ご招待で参加してきた。公式サイトにざっと目を通し、それ以外の予備知識なしで会場に向かった。19時からの回指定。半ば強引にお付き合い頂いた先輩とともに軽く身構える。

実物大の箱庭

触覚

光を完全に遮断した闇の中で、8人とアテンド(スタッフ)1名がパーティーとなり、杖の感触と四感を頼りに進むフィールドアスレチックのような催しだった。会場はもともと、会議や衣装、写真の展示等に使用されるホールらしい。しかし、今回闇に沈められたそこは、「見た目」ではなく「リアリティ」を第一に設計された、映画のセットのように感じられた。だから、暗闇の中に森があり、泉があり、人の住む場所がある。見えないだけでかなり精緻につくられていることは、いちいち自然物を折り曲げてみたり壁をつついてみたりしていたせいでよくわかった。

痛覚(これは四感には組み入れておりません)と聴覚、味覚、嗅覚

途中、進もうとしたら目の前に木があって、私は鼻を思いっきりぶつけたらしく、しばらく動けなかった。聴こえるものはヒグラシの声、鳥の声、ウシの鳴く声、テレビやラジオの音。にぎやかな縁日の音の源を探したら、スピーカーが出す音にたどりついてしまった。私は2名参加だったので、その他6名の参加者とは初対面。正確に言うと、自己紹介のときには既に暗がりで、顔を合わせていない。闇の中でぶつからずに歩くためには声でコミュニケーションを取るしかなく、他人の声を耳がとらえて、距離や表情を判断しなくてはならない。四感をフルに引き出させるよう、「匂い」や「味」の演出もあり、情報器官の働きを改めて自覚させる。実は下調べ不足で、アテンドの女性はてっきり見えていたのだと思っていたが、彼女は視覚障害者なのだった。私が闇のなかで触ったものをはっきり認識し、心配してくれた彼女は、四感であたりまえにそれを察することができる。

四感と「記憶」とノスタルジア

ノスタルジアの共有?

闇の中に再現されていたのは、森や泉、竹と木の建築物、神社の境内、といったものだった。それらに触れ、聴くことで感じるのは、「林間学校の山、旅先の森、田舎の親戚の家、田んぼのあぜ道、夜店の賑わい……」みんながみんなそうではないだろう、とは思う。だが、そう感じる人が大半であろうことは明らかだった。例えて言うならば日本を舞台にしたジブリ作品が伝えてくるような、「なつかしさ」や「自然」といった記憶を、四感は呼び起こす。そうやって、参加者は四感の機能に気づかされ、新たな感覚を得る。

「気づき」

参加者からは、日常を視覚に頼りきって生活している自分たちに気づかされたという声があがり、その感覚を日常生活に是非持ち帰ってください、いろんなものに触ってみたり、嗅いでみたりしてください、というメッセージで参加者は送り出される。それまであたりまえの生活をしていた人が、価値観を覆されて日常に戻っていく。それはワークショップの理想的なありかただが、こうした「なつかしい」モチーフが担ぎ出されることに、つい「」をつけたくなる。Auditory Culture Reader所収のJo Tacchi論文、“Nostalgia and Radio Sound”では、ラジオの音が運ぶノスタルジアという概念が肯定的に論じられていたが、読書会ではかなりの疑問が提出された。

果たすべきこと

間口が狭いままでは理解を得られない。紋切り型の説明で視野を広げることはできても、そこから何かが生まれてこない。肯定もできず、否定もできない。まずは気づいてもらわねばならない。それがある程度わかりやすいモチーフなのは仕方ない。だが足元に目を向ければ、サウンドスケープという概念もまた、生まれてから今までほぼ「気づかせる」役割しか担っていないのもまた事実だ。私はまだ、それに疑念を抱いているだけで、覆すなにかを提示できない。これから、自分自身が切り開いていかねばならない。

個人的感想

その後友達になったメンバーとカフェで話しながら気づいたこと

暗い中を集団について歩いていくことで精一杯だった、と言われたが、私は思いっきり一人で音のするほうへ歩き、セットの素材はなんだろうとつかんだり剥がそうとしたり、どうにも落ち着きのない子どものようなことばかりしていた気がする。そしてそれは、普段から自分がしていることと、そんなに変わりない。ひとり先頭を切って進んでいた女性は、視力が悪いので普段の生活も「見えないから手探り」が多い、と言っていた。私は、両目2.0を叩きだしたことがある。とうに20歳を過ぎたが、旅先やテーマパークで同じことをやる。ある程度までは性格の問題だろうが、音に関しては別の理由がある。以前、『残したい日本の音風景100選』をテーマにしようとしていた頃、社会学者である先輩に相談をしていたら、「ここに大学の銀杏並木が挙げられているけど、僕は大学の並木の音を意識したことなんてない。君のようにサウンドスケープ的な生活をしている人は少ないんじゃないの」と言われたことを思い出す。音をテーマとして選んでしまった以上、聴覚の「気づき」に対して素直になれないのはもう仕方ないのだろう。