古典

 3月なのに寒く、花冷えで涼しかった快適な関西から、それでも4月にしては涼しいという湿度9割超えの香港に戻ってきた。この10ヶ月で一番きつかったのは、夏ではなく、25度前後で湿度90%、まだ蚊がいる、という秋口の気候で、11月上旬は精神的にもだいぶ参っていた。


 その辺を越えて一時帰国が迫った旧正月、人に囲まれながら一言も発せずに意味の取れない会話を聞いていたとき、ふと頭に思い浮かんだのがこの本のことだった。

「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書)

「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書)


 ここに引用されていた、大衆演劇のフィールドワークのことを思い出して、原典を読むことに。


大衆演劇への旅―南条まさきの一年二ヵ月

大衆演劇への旅―南条まさきの一年二ヵ月

 著者の論文は、鉄道マニアについて書かれたものを参考にしたことがあるが、この単著を戻りの飛行機の中で読んだために、「私にももうあと一年二か月しかない」という感覚を強く刻むことができた気がする。


 おそらく、芸事の参与観察という点において、いま自分がやっていること(の一部)にも結構近く、そのため共感を覚える箇所が非常に多くあった。自分自身が乖離していくという基本的な点については私たちの領域にいると普通のことなのだろうけれど、私が共感したのは、徒弟制的な(厳密には私の場合は日本語で言う徒弟制とは違うのだが)人間関係の中でパフォーマンスを学び、失敗しながら関係者とつきあっていく、という点における諸問題について。


 それと、自分自身も以前(といっても21世紀になってからのことだが)、こうしたヘルスセンターでの演劇ショーで半月働いたことがあるので、ある程度様子が想像できて読みやすいというのもある。


 ただ、当時この手の研究が少なかったのだろうという描写が随所に見られる点に時代を感じる。書籍自体がもう16年前のもので、調査はその10年前、自分はかろうじて生まれた後のことだが、登場する「子役」の生年が自分より早いのに気づいてため息をついた。


 同じように呼ばれ慣れない名前に慣れ、自分より(はるかに)年下の人との付き合い方に悩み、予定の変更に振り回され、(しかも言葉が不自由である)、それでも2010年代に突入してしまった現在、それを書くだけでは今後につながらないし、「開きなおる」ことすら許されないことをはじめから学んできてしまっている。スタートが遅い分、そして時代の流れに沿わねばならない。私のような場所を選んでしまうと、乖離していく自己よりも、切り離せないことに悩むという事態になるわけで。


 でもこうした古典が存在することはありがたい。特に、こちらの「調査は母語併用で短期で、PhDは3年で」というプログラムを前提に話が進む中にいるといろいろなものを見失いそうになるので。


 同時進行でトライし続ける「大学院生としてのアウトプット」がことごとく失敗したこの春、10ヶ月前の初心に返るきっかけを持ってきてよかったと思う。