羽の生えた両手

 この場所を「三輪車紀行」と名づけてから一年が経った。それまでつけていた名前は、文筆家が修羅場で願う、右手に何かが降りてくるという表現をもじったものだった。さんざんだった結末と照らし合わせて、あまりに神頼み過ぎたことに我ながら呆れ、現実を見据え、地に車輪をつけて走るべきだと思いなおした。


 春になった。11年ぶりに引き開けた職員室の扉の向こうに知った顔はなく、廊下に飾られた賞状の額も古びて、校庭で走り回るジャージの色も変わったのを実感して門を出た。


 近所の文具店では、相変わらずピアノ曲が静かに流れていて、けれど小中学生向けの華やかなペンの並ぶ棚は、ここでもどんどん高機能化している。


 店を出たとき、とん、と柔らかい音がして、灰色の物体が車道に転がり落ちた。オレンジ色の脚が妙に鮮やかで、丸い鳥の形をしたそれは、かすかにもがいている。何にぶつかったのか、羽が壊れたのかはわからない。そして私の前を通り過ぎた2台めのタイヤの跡が、それを、鳥ではないものに変えた。何もできない。前にいた自転車の女性が表情を歪めた。


 この道を往復するだけだった3年間、こんなものに遭遇したことはなく、どうしようもない思いに襲われる。いやなものを見たと頭をふって、気持ちを切り替えて忘れることもできる。生命や環境や人間について考えて、自分なりの答えを出すこともできる。過去の思いを重ね合わせ、何らかの意味を読み取ることも、できなくはなかった。


 ただそして自分の中で何かひとつの答えを見つけ、その目の前のできごとを過去のこととして送り去り、そして日常に戻って自分のなすべきことに影響させないのが大人だとすれば、その「鳥」と何度も向き合い、忘れられるまで考えてしまうのが子どもの感受性だとすれば、私は大人でありつつも、それを他人の言葉で流すことは許されない。何らかの意味のある一瞬に、一羽の鳥と対峙してしまったことを、ほんの少しだけでも負い、問い続けることが役割。それがこの年月で選びとってきた自分自身だと、それもまた、一つの、自分のための答えでしかないけれど。