安らぎのある苛立ち

 友達が結婚する。知り合って、10年が経った。


 高校1年生の秋、仲の良かった数人が、歌の上手い友達をボーカルに、バンドを組んだ。1990年代後半は、アクターズスクール、(グループ名のついた)ジャニーズ、ヴィジュアル系の全盛期で、友達もたいていどれかのファンだった。バンド少年が校内に溢れていて、自由な校風をいいことに、エレキギターを担いで登校する子がとても多かった。


 私は高校入学と同時に、受験をめざしてソルフェージュに通い始めた。合唱部で、歌も歌っていた。当時の合唱の選曲は、やたら変拍子や転調の多い実験的な曲と、中学校で教わるようなシンプルな3声の曲と、そして10年前のJ-Popのアレンジが混在していた。男女合わせても20名に満たないメンバーで、精鋭40名の他校に本気で挑もうとした日々。


 ピアノを弾く合間に、バンドという形態が目新しく、時々スタジオに付き添った。音程の合っていないところを直したり、選曲の手伝いをしたりしていた。バンドをめぐって、部活をめぐって、高校生らしいいろいろな事件が起き、私は少し距離を置きつつも、たくさんの思いに巻き込まれ、充実した日々を送っていた(と、思っていた)。


 そんな時間に否応なく引き戻されてしまい、あまり冷静に読めなかった本。

音楽をまとう若者

音楽をまとう若者

 音楽の教育・社会学分野における博士論文である。ちょうど私と同い年―99年前後の高校生を主な調査対象とし、初めは教室で、その後吹奏楽部、軽音部、そして校外のバンド活動やヴィジュアル系コスプレの現場へと赴き、「好きな音楽」についてのインタヴュー調査をしている。著者が尋ねる「好きな音楽」という問いに、まっすぐに答えてくる高校生がいなかったことから、分析がはじまる。彼らが答えとして挙げてくる「音楽」は、場面によって異なり、それがまるで場面によって使い分けられる洋服のように「まとわれて」いる、という意のタイトルである。


 冒頭の記述で孫引きになるが、例えば。

スピッツ」の草野マサムネは、次のように発言している。「去年、『スピッツ』の曲が学校の教科書に採用されるって話があったんですけど、全然喜べなかったんですよ。ぼくたちは親や先生に隠れてそっと聴くような音楽が好きでバンド始めたんだから」(『The Music Master』[2000:3])。草野の時代には、唱歌クラシック音楽を代表とするメインストリームの学校音楽に対抗するため、反学校的なロックを聴き、ギターを弾くという構図は存在したのだろう。だが、「スピッツ」の曲を授業で歌って卒業する高校生が学校の音楽に抱くイメージは、唱歌クラシック音楽しか習わなかった世代の考える学校の音楽の印象とはかなり異なるはずだ。[p.2]


 大学入学後、サークルの友達が軒並みスピッツ好きでびっくりしたので挙げてみた。私が教育実習で教えた2003年の高校生は、卒業式で、「空も飛べるはず」を大合唱したそうだ。彼らのクラスのサイトでは、MIDIがいつも鳴っている。確かに曲調はシンプルで爽やかだが、クラス全員で、仲良く手をつないで歌い上げるような歌詞だろうか。PVをみれば一目瞭然な気がするのだが。おそらく、私と同世代の人たちと、学校で歌った世代の間でも、感じ方は全く違うだろう。


 しかし、同じ構図は私たちの時代にも当然あった。「あの素晴らしい愛をもう一度」や荒井由実の「卒業写真」は、私にとっても「合唱曲」だ。当時は一生懸命歌っていたつもりでも、今になって15歳の子どもたちが「卒業写真」を歌うのを聴くと、まだ歌詞と不釣り合いだな、と思ってしまったりする(そして独特のリズム割りも歌いづらかった。他にも、「浪漫飛行」を譜面で読むと異様に難しかったりと、何を基準に選んだのか分からないようなものも多かったと思う)。


 いわゆるクラシックの名曲と、唱歌と、とってつけたような「日本の伝統音楽」の鑑賞。そこに、これらの曲が並べられた「音楽の教科書」。当時から疑問に思い、大学では教授にレポートで喧嘩を売ったこの違和感に、どういう答えが用意されるのだろうと思わせられる導入だった。

内容

「パーソナル・ミュージック」「コモン・ミュージック」「スタンダード」の使い分け

 彼らは三つの「音楽」を使い分けている。一人でCDを買い、聴き、楽しむ「本当に好きな音楽」、つまり「パーソナル・ミュージック」。同世代と教室での話題にし、カラオケで歌い、協調することで自分を隠す「コモン・ミュージック」。そして、親世代や教師に対して「音楽」として通じる「スタンダード」である。そして、その語り方にも性差がある。例えば、GLAYなどのヴィジュアル系が好きな男子グループの中では、Mr.Childrenが好きな男子は肩身が狭い。対して、女子からは、カラオケで歌うDREAMS COME TRUEEvery Little Thingなどのレパートリー(「コモン・ミュージック」)は挙がるが、聴いている音楽としてはセリーヌ・ディオンなど「無難」な名前ばかりを挙げたり、アイドルの名が出ても批判したりと、パーソナルに聴く音楽をなかなか語らない。さらに吹奏楽部の生徒は、部活のレパートリーを表に立ててしまう。吹奏楽部の女子が、山崎まさよしが好きだと「打ち明けてくれた」ことが、大きな収穫であったらしい。(この性差による語りの差を、著者はミシェル・ド・セルトーの「戦略」と「戦術」をさらに推し進めた「戦法」と「作戦」として分析する)。


 これらの使い分けは、バンド内でも起こる。バンド内で最も力を持った子の「パーソナル・ミュージック」が、バンドのレパートリーとなり、そのバンド内における「コモン・ミュージック」となり、その他の子の「パーソナル・ミュージック」はあまり省みられない。

ただ「聴く」高校生はどこにいるのか

 音楽を演奏せず、「聴く」ことに専念している高校生が、なかなか見つからなかったという。著者が苦労して見つけたインフォーマントは、親が所蔵する膨大なビートルズなどのレコードを片っ端から聴き、「スタンダード」の知識をつけることに専念していた。彼が、周囲の大人にコンプレックスを抱き、パーソナル・ミュージックをうまく語れなかったことを、著者は「同世代との交流の欠如」として分析している。

コスプレ

 LUNA SEA, GLAY, MALICE MIZERなどのメンバーのコスプレをして集う少女たちについての分析。憧れるミュージシャンと同じ格好をすることで、彼女たちは、ロックという男性支配社会のなかに女性性の居場所を見つけたのだという分析がなされる。

「まとう」こと

 三種の使い分けという視点が核となる。「本音」と「建前」のうち、「建前」を構成するものが二種類(コモン/スタンダード)あり、場面によって使い分けられているという分析である。そして、「スタンダード」が、親から子へ、世代を超えて受け継がれる文化資本とされている。例えば、合唱コンクールの事例では、V6を歌ったクラスが落選し、CHAGE&ASKAを歌ったクラスが評価された点を挙げ、「教師の世代が評価する「スタンダード」を選んだため」としている。そして、これら若者によるポピュラー音楽の消費行動を、時に親から受け継いだり、その日の状況に合わせて鏡の前で取り替える「衣服」になぞらえている。

感想

 とても綺麗にまとまった本だ。「好きな音楽を語る」ことがなぜ難しいのか、ということをみつめるにも、良い一冊だと思う。特に、「ジャンル」の多様さと、ごく普通の高校生が出会い語ることのできる音楽の限界がすっきりと整理されている点。そして、「コモン・ミュージック」の発見である。同世代と盛り上がるための隠れ蓑、という視点が新鮮だった。だが、「そんなこともないんじゃないのか……?」という点も多々あった。まさにその世代の「当事者」として、そして「研究者の卵」として。


 まず、「性差」の扱いについて。重要な枠組みであることに異存はないが、音楽行動全般を切り分けてしまうほど強い規制だとは思えない。私が出入りしていたバンドでは、女の子がイニシアチブを取っていたし、女の子コミュニティでも「パーソナル・ミュージック」を語る友達はとても多かった。だから、「女子の音楽行動」として挙げられているコスプレの分析も、どこか唐突な感がある。ついでにいえば、ヴィジュアル系ファンの女の子には、メンバーの「異性装」に限らない、「ヴィジュアル系ファンの服装・メイク」というコードがあったように思う。そこにはメンバーに近づくという意図以上のものがあった。


 そして何より、調査の密度である。人類学的調査ではないから仕方ないのだが、インタヴューとしてももう少し踏み込めなかったのか、と思う。もし、10年前に私が著者(ちなみに大学の先輩にあたる)と出会っていたとしても、最初はこの本の彼らのような「無難な」回答をしただろう。しかし、少しでも一緒に音楽について考えたり、一緒に何かをする機会があったら、もう少し踏み込んだ語りをしていただろうと容易に想像がつくのだ(当時から音楽の意味についてばかり考えていた特殊な高校生を引き合いに出すのかという突っ込みはなしで、というか、まあ周囲の誰であっても)。ここに挙げられている回答や、ちょっと自意識過剰気味の少女たちの誤魔化し方は、「突然死したときTVに流されてもいいくらい無難な答えを選んだ卒業文集」と同レベルなのだ。もう少し踏み込んで調査をしたら……逆に何も出てこないかもしれないけれど、そこからつかみ出した何かをこそ私は読みたいと思った。


 更に、今の高校生たちはネットを使いこなし、mp3プレイヤーを持って出歩いている。ウェブの普及とデジタル音源のさらなる一般化で、スタンダードはどんどん増える。筆者自身あとがきで述べているように、彼らを取り巻く音の環境は、更に多様化している。iTunes Music Storeで、合唱コンクールで歌う曲をダウンロードしている中学生の書き込みを見つけた。筆者の理論立ては、こういった状況を議論するための土台には十分なりうるだろう。が、同時に、あまり間を空けずに応用していかなければ、意義が半減してしまうように思う。


 それでも、当時の疑問だらけの私に、一番読ませたいと思える本だった。迷いは、ある程度整理されると、問いに変わる。私にとってその問いはまだ生々しくて、これほどきちんと見つめられるものではないにしても。


 10年経った。当時の友達は、学び、出会い、ぶつかり、働き、そして結婚していく。多分、当時を一番思い出しているのは私だろう。こんな形で、または別の形で。「そこ」に問いの一片を見出してしまった以上、振り返る回数が増えることは避けられない。彼ら彼女らと会うたびに、一歩引いて眺めていた当時の人間関係を思い出し、そしてまた軽い眩暈をやりすごして進んでいく。