西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

 11月ごろに衝動買いしたまま放置してあったもの。
 クリスマスソングとか第九とかNHK紅白のごたまぜプログラムとかウィーンフィルとかをバックに、押し寄せる疑問と戦いながら、一年の出来事を文章にまとめていた十代の頃の思い出を重ね合わせながら読んだので、上記の決意を後押ししてくれる妙な効用がついてきた。
 前書きで著者自身の「好み」がロマン派であると断ってあり、各曲の紹介に「素晴らしい」「美しい」が多用されるなど、「主観」「わたし」を前面に出している*1。そのことが読みやすさを増す効果を持つと同時に、研究書に求められる「客観性」をいくらか逸脱している。
 だが筆者が現代のポピュラー音楽を一括りに“「感動させる音楽」としてのロマン派の継承”と位置づけることに、やはり視界の狭さや限界が示されている。非-西洋芸術音楽として消費される、拾いきれない音の振れ幅をすべて「演歌」として括ろうとするような、やはり「クラシックにしか関心がない」研究者やファンにありがちな視点をなぞっているのだ。以前、この人は音楽にアウラがなくなったことを嘆いている、という話が出た。「商品化されず聖性をまとった神々しい音楽」という捉え方自体が批判されているのに、そのことに無批判であるということ。
 しかし、だからこそこれだけ売れているような気もする。クラシックファンや、古い研究者の「聖なるもの」を見る目は、尋常ではない。そうそう説得しきれるものではないからだ。そこから先を変えていくことは、これからの世代の仕事なのではないでしょうか、と。
 つまりは自分が「何が音楽か」を考えなければならなかった必然を生み出した背景がわれわれの西洋音楽に対する捻じ曲がった姿勢にある、ということの「捻じ曲がり」を、明快に、「クラシックファンの機嫌を損ねないように」≒「途中で本を放り出されないように」≒「最後まで読ませ、納得させられるように」説いていることが、この本の評価されるべき点なのではないか、と思った。筆者の意図の通りに。

「クラシック」で思うこと

 たとえば「運命」や「ツィゴイネルワイゼン」や「小フーガト短調」は、いまや笑いを取るためのBGMと化している。高校時代、それを問いにした文を書いたことがあった。だが「まともにクラシックをやっている人」たちは、それを問うことすらしない。
 考えることなど放棄して、聞き慣れた音に浸ることだけが幸せである人も、いるのはわかっている。というかそれがマジョリティだということも。そしてマイノリティの中にあって、そのことばかりを振り返り続ける自分が更なるマイノリティであろうということも。
 
 それでも私はどうしても、研究者たちがことばをつくして訴えることを、「他人に理解してほしい」と思う。難しいと揶揄されても、それでも音楽はいいと思えばいいんだと畳まれても、説得することを諦めたくない。わからない人はどうでもいい、と放り出してしまうのならば、続けていく必要もないと思う。だから、職業選択は慎重にすべきだと思っている。
 「わかる人」に囲まれる生活が結局身のためだと感じてはいる。目線の高さを一定にしないと、まともに論文を書いていくことが難しくなることもわかっている。そこを出発点にしてしまったことが、この3年間躓き続けた一因だ。けれども研究者たちの「前提」は、世の人々にとっては未だに「ただの理屈」であり、それが変わっていかない限り、研究の向かう先は袋小路であるように思えてならない。社会を見ていくのならば、「鳴らす」のも「聴く」のも、われわれだけではないのだから。