楽理科の特性と音楽学の位置を外から見て思うこと

(検索語でたまに受験生?という人がいるのでちょっとまじめに書いてみる。問題あったら消します。)
 学部の楽理科は4年前まで、「音楽に関することなら何でもあり」だった。今は、「専攻科がないor専攻生にはなれないけれども演奏がしたい/踊りたい/舞台を作りたい」といった、“表現者を目指す人たち”に対しては、別の門戸が開かれている(ことになっている)。自然、楽理を選ぶのは“お勉強をしたい人たち”と棲み分けが形成される。音楽環境創造科の倍率がヒートアップする一方で、楽理科の倍率は下がっているらしい。その代わり音楽学修士・博士課程の倍率は学部よりも高い。

 私は学籍も専攻も音楽学から離れてしまったが、それでも不思議な帰属意識を楽理に抱いている(だからこんな事情まで知っているし気にしている)。その反面、もともと高校の時点で民族音楽学仲間ができてしまったり、受験で京大の人に師事したりしたため、「音楽学=楽理科」とは思い込めないし、だからこそ修士で外に出た(ということになっている)。けれども今でもしょっちゅう出入りしているし、プライベートでもアカデミックでも、とても思い入れがある。


 たとえば芸大内におけるおおよその合意どおり、演奏以外の手法で音楽に関わろうとする人たちが楽理科生だとする。
 そしてアカデミックな人文科学一般において音楽はもはや「複数形」なのだとすれば、単数形の音楽語法としてのピアノや和声を必死で学んで芸大に行く意味はどこに見出せばよいのだろうか。これまで門戸を狭めることで幾人の有望な志願者をはじいてきたのだろうか。そう思う反面、ガムラン長唄も、ドレミに直して音を取りながら授業を受けていた自分も思い出す。
 相対的に見て難解な楽器としてのピアノをある程度弾きこなす力があれば、「音を出す」能力が人より高いとみなし、ソルフェができれば、音をつかむ能力を認める。それがシェーファー言うところの「イヤー・クリーニング」のプロとしての訓練だと考えてしまえばいいのかもしれない(彼は音楽家が音環境のプロだという信念から出発している)。


 しかし、その能力と、それを身に付けるためにかかった時間が刷り込んだ「単数形の音楽」概念が主な原因の視野の狭さと、どちらが将来的に重要なんだろう?適当にレッスンを続けていただけの自分ですら、いろいろな刷り込みから自由になるのに今までかかった。受けるときは苦労をしても、中高生になってから音楽に興味を持って、受験のためだけに高校から実技を始めて入ってきた人たちのほうが、自由なんじゃないか。そんなことをよく思っていた。
 カリキュラムにも矛盾は出ていて、美学概説で弁証法の説明が3分で終わるとか、ピタゴラスといえば三平方の定理じゃなくてピタゴラス音階だとか、当時から突っ込みどころは山のようにあった。日本音楽を研究する人が日本史をやってないなんてことも当然だった。
 一心不乱に全てをかけて、単数形の「音楽」の「演奏家」になりたがって、気づいたら後戻りできなくなっている人たちをたくさん知っている。そういう人に早いうちから他の方向を見てもらいたい、というのが、今の自分の一つの動機にもなっている。
 矛盾した土台のなかで学ぶためには、ノイズをシャットアウトする(もしくはスルーする)ための強さが必要なのだろう。