定期的に学校に行き、カレンダー通りにノルマをこなす生活が崩れだしたころから、皮膚に変調が出ることが多くなった。半ば気休め、半ば節約で、洗顔や洗髪に使うもの、顔につけるものに何が入っているか少しずつ調べ、なるべくシンプルなものをなるべく早く使うようになった。


 そうやって化粧品類のサイトを覗いているうち、ユーザである女性たちが敵視しているものに気づいた。化学合成と、動物実験。不思議なことに、どちらか一方を嫌がる人より、セットで避ける人のほうが多い。気にしない人はどちらも気にしない。


 自然じゃないとか、営利主義とか、残酷だとか、かわいそうとか、命を大切にとか。そういう言葉が並ぶ。特に動物実験反対の言説には、どこかデジャヴを感じた。それは、動物の革を使った楽器を作り続ける人たちが訴えた、彼らを排斥する人たちの言葉だった。それを使った音楽が浴びる光に対して、作り手たちが帯びるのは、長い長い差別と偏見という影。この話はいつか本気で書こうと思いつつ、その機会がまだない。


 常にアンテナを張っている方向ではないし、問題は複雑すぎて、明瞭なメスを入れることは自分の力量ではまだできない。ただ、こうしたことを考えるとき、必ず思い出す一節がある。

「人が生きているのって何だと思っているの。実験動物の何千万、何億という命が、真実を教えてくれたからなんですよ。それを見学にくるオツムの弱い女性が異口同音に言うのは、可哀相、人の勝手、この動物たち、しあわせかしら―ああムカムカするわ。そのくせ薬は飲むわ、手術はしてもらうわでしょう。種痘だって、他の命を踏台にして発見されたのよ。どうしてそこまであわれむ必要があるの。そんなに慈悲深い人なの、あなたは。慈悲なんて、そんな甘っちょろいものではなくってよ。ケージに入っているネズミを、明日は人の好奇心のために犠牲になって、癌を植えつけられるネズミを、冷静に、淡々と見つめられるのが大きな慈悲なのよ。」[畑 1987:298]

 動物の好きなおじさん、という作者のイメージは、これを読んだとき一転した。自然保護や動物愛護を「善」として教え込まれつつ、どこか疑問を持っていた自分の違和感が、ことばという形を与えられた瞬間だった。その後映画化されたこの小説は、某ハリウッド映画と酷似していたり、出版元が疑惑の渦に巻き込まれたりし、結局大コケに終わった一方で原作の存在は忘れられた。映画は見なかったが、映画版を漫画にしたのはCLAMPで、その単行本を読むと何をどう切り捨てたらああなるのかとむしろ感心する。だが当時から、原作とのギャップについてはあまり語られていなかったように思う(情報元は新聞くらいだったが)。親の本棚から勝手に取り出して一気に全巻を読み通した私はどこを批判すべきかもわからず、今見直すと作者の女性観やメディア観を中心に突っ込みたい箇所は山ほどある。


 それでも、作中でアメリカ人女性研究者が日本の民放女子アナに言い放ったこの台詞だけは、どうしようもなく忘れられない。逆に言えば、これを越える価値観とプロ意識に、まだ出会えない。当時はまさか、自分が研究の道を選ぶとは思っていなかった。選んでからも、こうしたぎりぎりの生命倫理や偏見からは無縁の場所にいるものだと思ってきた。でも実際そんなことはなく、相手や社会との葛藤の中で、常に問題は浮き上がる。


 たとえば「アフリカの飢えた子どもたちを救おう」という言葉。たぶんたった一行で、ほとんどの人の脳裏に、あの大きな瞳の子どもたちの写真が浮かぶのだろう。でも、実際のアフリカの某都市での話を聞くと、真逆のことがおこなわれている。貧しかった時期の記憶から抜け出すために、人々は必ず食べ物を大量に残すのだそうだ。それが、彼らのプライドの顕現であり、土地でのマナーなのだという。


 アフリカにも多種多様な場所があることを、このフレーズとあの写真があっさりと捨象してしまっていることには、少し考えれば気づく。だが、それをむしろひっくり返しかねない事実があることや、アフリカと一言で括ることによる、それに直面したときのこのフレーズの重みとその暴力性を知りうる人は、一般のなかにはほとんどいない。事例としては、話してくれた人が書いて発表するまで仕方ないのかもしれない。ここでダイヤモンドの話を出す気はないが、そうして、ひとつの言葉がパブリックに与えるステレオタイプに動じずに、時に戦いながら、そんな状況をまっすぐに見つめ、向き合えることが、忘れてはならない姿勢なのだと思う。