[雑記]

 30分間の演奏を聴きに梅田へ。吹き抜けのロビーにピアノを設置した舞台なので、柔らかく拡散しがちだった音が、次第に以前のような勢いで流れはじめるのを、聴いた。真夏のホテルに流れる、「戦場のメリークリスマス」。


 「ヴァイオリンはね、音を出すところが見える楽器なんだよ。同じ音を出すにも、見て映えるボウイングで弾くの」


 3年間、文献を積むばかりで指はもうまったく動かない。だが、私にとっても、ヴァイオリンとの出会いはとても大きかった。「自分で音を作る」という行為は、自分のなかに、ピアノによる音のものさしが出来ていることに気づかせてくれた。この時期に自分の中で意識された、音の「聴こえかた」に対する思いが現在も基礎になっている。おそらく、ピアノだけ弾いていたら、気づかなかった感覚だと思う。そして2年後にトランペットを手にしたとき、音への違和感はもっと大きくなった。


 私の場合、親族に音楽の専門家が一人でもいたら、音楽を専門にすることはなかったように思う。「絶対音感」がどういうものか知らず、他にその違和感を分け合う人もいない環境にいたからこそ、それへの問いは進路選択の時期まで自分のなかに残ったのだろう。複数の楽器を学ぶことで、それまでの感覚が相対化された。


 その後、彼女の尊敬してやまない「先生」から、ヴァイオリンについて教えていただいた時期がある。そもそもこうして演奏を聴きに行くようになったきっかけがレッスンだった。しかし技術は到底追いつかないから、私はいつも、先生が「音楽」について「音楽を教えること」について、語るのを聴いていた。その中で最も印象に残っているのが、上の台詞。弦楽器の音は、「見える」。それは比喩でもなんでもなく、身体を動かして音を生み出すことそのものが、パフォーマンスとして成立するというだけのことなのだけれども。


 弦の軋む音を何より怖がった練習をしていた私に対して、先生は、勢いを大切にする弾き方を教えてくれた。先生自身の音も、とても強いものだった。

 
 彼女の音も、実は、とても強いのだ。柔らかく、一見繊細そうな外見とはギャップがあり、弾き方にも勢いがあって。文章を読むとそれがわかる、とそういえば誰かが言っていたように思う。