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日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

 人が買った本なのだが、横取りして先に読ませていただいた。どちらかというと宗教に関しては、研究云々よりもプライベートな関心のほうが強い。というのは、私自身、お宮参りに七五三にクリスマスに葬式仏教という環境で育った「にもかかわらず」著者の言う“「無宗教」を標榜してなんら疑わない日本人”に納得がいかないまま成長してきたからだ。歴史の授業で「南無」の意味を教わって以降、法事でお経が読めなくなったり、教会での結婚式を見て自分には無理だと思ったり*1。それでも宗教的儀礼に触れることは嫌いではなかった。ただ、信じます、とか誓います、とか言えないというだけで。

要約

創唱宗教自然宗教

 筆者はまず、宗教をこの二つに分ける。キリスト教イスラム教、仏教など、教祖がいて教団があり教義がある……というタイプが「創唱宗教」。そして、そうではなく自然発生的に信仰されてきた宗教が「自然宗教」(自然崇拝とは意を別にする)。筆者は、初詣やお盆など、「ご先祖を大切にする気持ちや村の鎮守にたいする敬虔な心」を自然宗教の例に挙げている。近代の日本は、この「自然宗教」を、「風俗習慣だから宗教ではない」とする傾向があり、そのため人々は無宗教を主張するし、裁判所は公費で地鎮祭をしても政教分離の原則に抵触しないという判決を出す。

無宗教の形成

 中世、井原西鶴が描いたような「浮き世」になると、輪廻の苦しみを信仰で断ち切ろうとする宗教心が、日常の享楽へと流れていった。その中で「死」を弔うための宗教として「葬式仏教」が定着する。さらに明治の天皇制にまつわる国家神道の形成と欧化推進によるキリスト教布教の受け入れという矛盾を解消するために、「信仰は個人の私事」であり「社会的活動は国家の制約を受ける」という内/外のダブルスタンダードが定着することになる。そういった中で日本のムラ社会は「平凡」や「日常主義」を前面に出して、それを乱しかねない創唱宗教のようなものを徹底的に排斥してきた。この流れが日本人の「痩せた宗教心」を育んできた、と筆者は嘆く。

自然宗教の祭り

日本の多くの宗教行事に研究者や観光客が入り込み、神聖さを乱すことが一般的になってきた現在、学生を連れて宮古島に渡ろうとしてシャットアウトされた経験は「自然宗教」の雰囲気を伝えるエピソードとして描かれている。

二通りの人生観

宗教を語る上で「一度生まれの人」と「二度生まれの人」がいる(W.ジェームズ)。前者は世界を調和したものとしてとらえ、人間として生まれたことが人生の幸福であるとみなすゆえに神を慈悲深いものととらえている。対して後者は、世界と人生の無常や無意味に苦悩し、「不条理な人生に思い悩んだ果てに、もう一度精神的に生まれ直すという経験がどうしても必要だと考えている」(p.197)。ゆえに、「日本人に「無宗教」を標榜して怪しまないという人々がかなりの数に達するということは、日本人には「健全な心」の持ち主が多いということになろうか」(p.198)。

コメント

 本文中に明記はされていないが、おそらくは筆者自身が浄土真宗の信仰を持つのではないかと考えられる。そのため全体の論調が「無宗教を主張する日本人ばかりであることが嘆かわしい」という色を帯びていることは否めない。われわれが年中行事としておこなっている活動そのものが自然宗教という信仰心に基づいたものである、それゆえ無宗教とか無節操というわけではない、つまみ食いで恥ずかしいと思う必要はない、という主張に置き換えて読めば有益な本だった。
 つまり、この書物を読んで「信仰をもつことはよいことなのだ」と気づいたとして、それが自然宗教であることを肯定する材料があまりないのではないかと思うのだ。お盆の風習が自然宗教といいつつ、葬式仏教は嘆かれている。肯定的に描かれている自然宗教宮古島の閉じた祭りだが、宗教儀礼の観光化や研究者の参与の構造は、宗教心の衰退だけで語れるものではないということは人類学の周辺ではとっくに前提だ。どことなく、もっと創唱宗教に関心を持つべきだ、と諭されているような読後感がある。
 だが、「回心」して信仰の道を取る人は人生に思い悩む、という点は、もっと具体的に論じる余地があると思った。現在の日本で人が「創唱宗教」に入信するきっかけは、周囲で見てきた限り「人生に深刻な悩みを抱いて」であることが多いし、そうでなければ生まれながらにその信者として育てられるというケースだからだ。あまり具体的に語るのは控えるが、更に言うならば、絶対的一神教というか他宗の排斥と折伏を教義の核に置く宗教が「慣習としての宗教行事」に適応していることは、明治期、国家神道廃仏毀釈をしつつキリスト教布教を受け入れ、人々の振る舞いを神道に、信仰心を「無宗教」という名の自然宗教に押しやったことの逆を行っている。彼らがクリスマスやら七夕やらの「慣習」をこなすとき、それは自然宗教ですらなく、他宗の抜け殻になってしまっている。そのあたりの分析がどこかにあれば、と思う。

*1:結婚(式)は『ダーリンは外国人2』のトニーのセリフ「神父とかその町の長とか船長とかの前で「結婚の誓い」をすること;あと証人もつれてきて」(p.123)の町長とか船長とかならなんとなく納得がいくのだがそれはそれでどうかと自分で思う

ダーリンは外国人(2)

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